ラルフ・D・ウィンター
2.内陸宣教時代 ―― ハドソン・テイラー(1865)
ハドソン・テイラーもまた、30歳に満たないうちに新しい海外宣教団体を始めなくてはならないと考えたため、生意気だと思われていました。彼自身、恐れおののいていましたが、彼は1865年にハワイの島々からの宣教師たちがその年に家に帰り始めたことに関わらず、彼の考えを実行に移しました。テイラーの内陸の福音を知らない人達に重きをおいた宣教活動に他の宣教団体が参加するようになるまで、実に20年もかかりました。
第二次宣教時代がゆっくりと始まったのは、多くの人が混乱していたところにありました。既にたくさんの宣教の働きがあったので、なぜもっと必要なのか?というのです。けれども、テイラーは既存の宣教団体のすべては、アフリカとアジアの海岸地域か太平洋の内陸に限られている、と指摘しました。人々は、"海岸地域が終わっていないのに、なぜ内陸に宣教しにいくのですか?"と彼の考えに同意を示しませんでした。
1880年代の後半になってやっと既存の宣教団体は、新しい宣教地のための備えをし始め、内陸宣教を強調したスーダン内陸宣教団、アフリカ内陸宣教団、アフリカ核心宣教団、"地域を越えた宣教師"連合、などといった宣教団体が次々と組織されました。この様にして、第二次宣教時代が到来したのです。
第一次宣教時代の初期に事が起こり始めた時のように、神は学生宣教運動を起こしました。この時には、前回とは比べ物にならないくらいのものすごい人数の学生たちが海外宣教に出て行きました(学生ボランティア宣教活動)。1880年代と1890年代には現在の37分の1の大学生しかいませんでしたが、十万人の学生達が宣教に人生を捧げました。そのうちの二万人が実際に海外宣教へ出て行きました。八万人が留まり、宣教の試みの土台を築きな直さなくてはならなかったのです。彼らは、平信者による宣教師活動を始め、女性宣教団体の存在を強めました。
けれども、第二次宣教時代に出ていった大学一年生たちは、海外宣教地に飛びこみ、第一次宣教時代の宣教師たちが、その国の知識層の指導者たちに責任をどのように任せてきたのかを推測するとは限りませんでした。第一次宣教時代の宣教師たちは、今となっては少数派で、彼らが経験を通して得た知恵を大学で学んだ大人数の新しい宣教師予科生たちに伝えました。それゆえ第二次宣教時代の初期は、新しい宣教師が新しい開拓地へ行くかわりに、たびたび既存の教会の指導を引き受け、第一次宣教時代の宣教師たちとその国での(骨身を惜しまずに育てられた)指導者たちを背景に追いやっていました。このことによって、宣教計画が大幅に後退してしまった場合もいくつかありました。
しかし、1925年には歴史上に残るほどの大きな宣教活動がとんとん拍子で進んでいきました。その頃には、第二次宣教時代は、始めは無視していた基本的なことを学び、すばらしい記録を更新していました。彼らは、千箇所にもわたる(主に内陸の)新しい地に教会を建て、1940年までに世界中の"若い教会"はこの時代の"新しい素晴らしい事実"として喝采を送られていました。このような教会の長所はその国での指導者たちと宣教師たちが、その他の全ての開拓地はあちこちに散らばっている教会が伝道すれば終わると仮定しているところにあります。もしかしたら、宣教師はそんなに必要無いのかもしれないと思う人が増えはじめたのです!そして1865年に、再び世界のあちこちから宣教師たちを家に送り返すことが理にかなっていると人々は思うようになったのです。
1967年には、アメリカからの宣教師たちの数が減り始めました(これは、現在でも続いています)。なぜでしょうか?クリスチャンたちは全ての宣教拠点は制覇されたと信じるようになっていたからです。1967年までには、北アメリカからの宣教師の90%は、既に建て上げられた教会で働いていました。
しかしながら、事実は、そんな簡潔なものではありません。誰も気づかないうちに次の時代の幕開けとなるのです。
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