ラルフ・D・ウィンター
1.海岸宣教時代 ―― ウィリアム・キャリー(1792)
30歳にも満たない、青年キャリーは大宣教命令を真剣にとらえたとき、問題に直面せざるを得ませんでした。聖職者たちのグループに話をする機会が訪れた時、彼はなぜ大宣教命令が彼らに当てはまらない理由を挙げてください、と挑みました。彼らはキャリーをしかりつけ、"神さまが異邦人たちを救おうとなさるなら、わたしたちやあなたの手助けなしにするだろう。"と答えました。彼は、このことについて二度と話すことは許されなかったので、忍耐深く"異邦人を改心させるために何かをする(手段)クリスチャンの責任に対する調査"という彼の分析を書きました。
この小冊子を通して、彼の数人の友人達が、彼が言う"手段"である宣教団体を小さくても作るべきだと確信しました。その構造は、彼がインドへ行くのに必要としている最低限のものしか与えることのできない薄弱なものでした。しかしながら、彼の示した例のインパクトは英語を母国語とする国々に反響を呼び、彼の書いた小冊子はプロテスタントの宣教活動の大憲章になったのです。
ウィリアム・キャリーは、プロテスタント教徒初の宣教師という訳ではありません。モラビア教徒たち(15
世紀に Moravia で起こったプロテスタントの一派の人 )がすでに数年に渡ってグリーンランド、アメリカ、アフリカに宣教師たちを送り出していました。彼の小冊子は、福音派の目覚めと共に、そのビジョンと大西洋の両側において人々が変えられることを早めることになったのです。反応は、ほとんど即座に起こりました。二つ目の宣教団体がロンドンにて組織され、またスコットランドで2つ、オランダでひとつ、イギリスで、さらにもうひとつ宣教団体が組織されました。その頃には、キャリーが主張したこと、宣教団体を作ろうとしたことは宣教の試みの成功に不可欠であることが正しかったということが明白になりました。
アメリカでは、5人の大学生がキャリーの本によって立ち上がり、彼らの人生においての神さまの導きのために集まって祈るようになりました。この目立たない祈り会は、後に"干草祈祷会(Haystack
Prayer Meeting)"と呼ばれる、アメリカ人の"手段"、アメリカ海外宣教委員会へと発展していきました。さらに重要なのは、彼らの例が学生宣教運動の先駆けとなったのです。
実際、キャリーのインド宣教の25年後に、たくさんの宣教団体が大西洋の両側に組織され、第一次プロテスタント宣教は好調な出だしで始まりました。現実的には、この第一次プロテスタント宣教時代は、その時代のヨーロッパやアメリカの人々が夢中になっている状態に比べて、みじめなくらい簡素な働きでした。宣教師を送り出そうという考えは、なかなか実現できず、だんだんそれが当たり前だと思われるようになっていきました。
キャリーの影響により、ボストンにいる女性達は、女性宣教祈祷会を始め、女性が宣教に対する知識や動きについて管理する傾向を立て上げました。数年後、女性たちは、独身の宣教師として宣教地へ赴くようになりました。1865年には、未婚のアメリカ人の女性達がローマ・カトリックの女性修道会のように、未婚の女性だけを送り出し、未婚の女性だけで組織されている女性宣教団体を設立しました。
第一次プロテスタント宣教時代において、宣教地においての進歩は痛み苦しむほど遅いものでした。とくに西アフリカにおいて、宣教師たちは次々と熱のために倒れて行きました。初期の宣教師たちは、彼らが死を覚悟で行かなければならないことを理解していました。1835年から1870年の間にガーナへ渡った35人の宣教師のうち2人だけが2年以上生き延びました。しかし、そこで福音が根を下ろし、育ち始めたのです。
福音が届くところで、たびたび驚かせられる結果がもたらされ、1865年にはハワイの島々からの宣教師たちが家に帰り始めたほどでした。彼らは、自分達の仕事は終わったと信じたのでした。彼らの撤退により、第一次プロテスタント宣教時代は衰え始めましたが、次の時代が始まろうとしていました。
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